チョコレートドーナツ 感動と問題だらけ子供が見る映画じゃないぞ!
様々な映画祭で絶賛されたということで、話題に上がった映画。
ゲイのカップルがダウン症の子供を引き取り、家族になるというお話。
これだけ書くと変なラブコメとか思う人もいるかもしれないが、いろいろ考えさせられるキツイ映画である。
性的描写も少々有り、この辺苦手な人は注意。
どんな映画でも、見終わったあとに様々な感想を持つ。
この映画を見て、つまらないとか、くだらないとか思うようなら子供向けのアニメ映画だけを見るようにしたほうがいい。
理由はまた後で。
あらすじ
1979年のカルフォルニア。
ゲイバーでダンサーをしているルディ。
いつものようにステージでショーをしていると、ルディを見つめる男ポールに気が付く。
ステージが終わったあと、ルディに声をかけるポール。
2人はポールの車で・・・
ことを済ませてルディを家まで送り、連絡先を渡すポール。
隣人と軽く口喧嘩(騒音に対して)をしたあと、眠りにつく。
翌朝、大家とも軽く口喧嘩をし、その後隣人の騒音に腹を立て怒鳴り込むも部屋には子供(マルコ)しかいない。
マルコも母親がどこにいるかわからない。
困ったルディはポールに助力を求めるが、ゲイであることを隠したいがために受け入れられず、ルディが出て行く。
アパートに戻ると、マルコの部屋に大家と市の職員がいて、マルコの母親が薬物所持で逮捕されたこと、マルコを施設へ送ることを知らされ、連れて行かれるマルコ。
その晩、ステージでショーをしているルディのもとにポールが訪れ、謝罪をする。
ポールを許したルディは、ポールに車で送ってもらう。
その道中、夜の街を歩くマルコの姿を見つけて、慌てて駆け寄る。
マルコは施設を抜け出し、家に帰ろうとしていた。
ルディは彼をこのままにしておけず、自宅に匿う。
でも大家に見つかってしまい、居場所がなくなると、ポールが自宅に来るように促す。
その晩、ポールの家で食事をしてマルコを寝かしつけたあと、ルディはマルコの面倒をみることを決意する。
大体半分くらい。
このルディの決断に、弁護士をしているポールは力を貸して一時的に保護者としての権利を得る。
(この時点では『マルコの母親が服役中の間』である)
感想
この先は彼らが家族となり、愛に満ちた生活が始まる。
が、それはわずか1年で終わってしまう。
理由は偏見・差別。
ポール達が3人で上司の家のパーティーに参加し、上司に関係を悟られたのがきっかけで、マルコは施設に連れ戻されてポールは解雇される。
このあと直ぐにマルコを取り戻すために彼らは裁判を起こすが、結局ゲイであることを批判され、彼らの意見は裁判官には届かない。
結局、偏見ですべて決まっていく。
でもこれは当然といえば当然。
血のつながりのないゲイカップルと障害者の子供が一緒に暮らしたい。
彼らの関係、絆を知らない人間から見ればこの程度の主張に見えるだろう。
作中でもポールが言っている「これが現実」、まさにその通り。
この現実を跳ね除けるのはとても困難、あとは泥沼。
叩きつけられる現実
この映画は後半になると色んなものを見せつけてくる。
さっき書いた『偏見』がその1つ。
それから『家族愛・家族の絆』。
血のつながりのない3人の間に生まれた絆はすごい。
それを1番印象付けたのは、再度施設に送られたマルコが、ルディの迎えを待つが結局来られず、夜中ベットで泣いているシーン。
親が消えて施設へ連れて行かれるときは無表情で促されるがままだったマルコが、ルディたちと会えないことを深く悲しむ。
実の母親に会う時でさえ、「ここは家じゃない」と否定するマルコも見ていてやりきれないものを感じる。
あとは『常識』
ポールとルディはマルコの事を思い、親権を得るために戦うが、絆よりも常識的な人間を選ぶという現実が彼らの前に立ちふさがり、絶対的に変えられない、壊せない血の繋がりが彼らの理想を打ち砕く。
血のつながりのある母親、親類が子どもを育てるべき。
でもそれは本人が望むならばの話だと考えるが、本人(子供)の意思より有識者の見解の方が優先されていく。
これが正しいとは思えない。
でもこれはマルコ達の目線での話。
1人の人間の生き方を決めるというその大変さというか、重要さはわかる。
だから常識ってものに頼ってしまう裁判官とかの気持ちもわからなくはない。
それでも疑問は残るけど。
ポールの想い
彼らがゲイであることを理由にしてとにかく保護者としてふさわしくない、そう言ってくる裁判官にポールが自分の想いを声を震えさせて伝えるときのセリフが好きだった。
ちょっと長いよ。
この公判はマルコのためのものです。
今こうしている間、どこかの施設でひとり座っている彼の、一生施設で過ごすことになる彼のね。
なぜなら、誰も彼を養子に迎えたがらないから。
背が低く、太っていて、頭にハンデキャップがある子供なんか養子にしたがらないから。
この世界中で誰も彼を求めていない、私たち以外はね。
私たちは彼が欲しいんです。
彼を愛しているんです。
彼を教育し、面倒を見て、安全を守り、いい人間となるように育てます。
これこそ彼に与えるにふさわしい環境じゃないですか。
これこそが全ても子供に与えるにふさわしいことではないのですか。
自分の子供のように思っている人間だからこそ出てくる言葉だと思う。
彼らは本当の家族になっていた、素晴らしい家族に。
子供が見る映画ではない
最後に、子供向けアニメ映画だけを見たほうがいいといったわけだが、簡単にいうとガキがこういった映画を見ても面白くないということだ。
ルディは自分で何もしないで騒ぐだけとか、最後に何もしなかったとか言っている奴がいるがルディをヒーローか何かと勘違いしているのだろうか。
『彼らがいろいろ行動して見事ヒーローとして悪(偏見)に打ち勝ちマルコの保護者として幸せに暮らしました。』
そんな内容が見たかったのか。
子供はヒーローが悪を倒すものを見たがる。
それはわかる。
だから、そういった映画をみればいい。
この映画はヒーローを写したり、作ったりしていない。
偏見に打ちのめされて苦しむ人間、血のつながりなんて関係のない本当の絆を持った人間を写している映画だ。
母親の登場で打つ手がなくなったとき、途方にくれたルディが何もしないというが、『しない』ではなくて『出来ない』だ。
わが子のように愛したマルコを失う、この辛さをわかると軽々しく言えないが、とてつもなく辛いことだということは理解できる。
簡単に次に気持ちを切り替えられるわけがない。
裁判が終わったマルコを忘れて歌を歌うことに逃げた、といった発言をする人もいる。
成長した大人の人間がどういう見方をすればこの考えに至るのか理解できない。
ホントにガキが見た、という印象しか出てこない。
だから子供向けのアニメ、あるいは特撮でもいい。
悪を倒すヒーローを見て満足していればいい。
この程度の否定的な内容を書くような人間はホントに映画を見てはいけない。
マルコを担当した先生、あんな人が世に増えればきっと世界は変わる。
でも、そんな風にはならないだろう。
これが現実だ。
では、本日はこの辺で。しーゆー!